文化遺産の内容 京都は794年から1868年にかけて天皇が居所をおいた日本の首都であり、武家政権が政治の中心を鎌倉と江戸に移した時期以外、文化・経済・政治の中心として繁栄しました。京都は北、西、東の三方を丘陵に囲まれた盆地で、中央の平地部では、兵火などにより多く建造物の焼失、再建が繰り返されましたが、11世紀から19世紀にいたる各時代の建物が多く残っており、往時のたたずまいを今に伝えています。 「古都京都の文化財」の構成資産は、山麓部を含む京都市の中心部に所在するものが多いのですが、延暦寺は比叡山山頂部(一部は滋賀県)、醍醐寺は山科盆地、平等院と宇治上神社は京都市の辰巳 (東南)方向の宇治市に位置しています。 京都に歴史的建造物が多く残っている理由の一つとして、太平洋戦争の時に幸にも空襲を免れたことがあると思います。当時私は伏見に住んでいて、空襲警報が鳴って裏庭に掘ってあった防空壕に避難したことが2・3回ありました。上空を米軍機が通り過ぎましたが、爆弾は落とされませんでした。 北海道出身の事務所の先輩が京都観光に来て「先の戦争で焼失して再建されたもの」という説明を変に思って質問したところ、「先の戦争」とは「応仁の乱」の事だったといって笑っていました。 いつまでも平和でありますように・・・。 参考資料:国指定文化財等DB 2023-6-25 [附]京都の街中は碁盤の目のように道路が通っていますが、この通りの名前を覚えるために、「京の道覚え唄」という手毬唄があります。今では通りで手毬をつく人も見かけませんが、末尾に |
世界文化遺産 -古都京都の文化財- |
構成資産 賀茂別雷神社 (上賀茂神社) 、賀茂御祖神社 (下鴨神社) 、教王護国寺、清水寺、延暦寺、醍醐寺、仁和寺、平等院、宇治上神社、高山寺、西芳寺、天龍寺、鹿苑寺、慈照寺、龍安寺、本願寺、二条城 |
京都の通り覚え唄 まるたけえびすにおしおいけ (丸竹夷二押御池) あねさんろっかくたこにしき (姉三六角蛸錦) しあやぶったかまつまんごじょう (四綾仏高松万五条) せったちゃらちゃら うおのたな (雪駄ちゃらちゃら魚の棚) ろくじょうさんてつ とおりすぎ (六条三哲通りすぎ) ひっちょうこえれば はっくじょう (七条越えれば八九条) じゅうじょうとうじで とどめさす (十条東寺でとどめさす) |